・ ・ ・  元祖・ストリートミュージシャン  

                            せき どうえい(積 道英)  ・ ・ ・                   

                                                                                                         
   

− 目次 −  きっかけ               

 

2.名瀬港での足止め

 

3.大島高校・青雲寮からの救いの手

 

4.とんだ迷走台風で、青雲寮では・・

 

5.台風が戻って来て・・・大食漢・首藤君の涙

 

6.そしてギター片手に名瀬市のストリートへ

 

7.名瀬港での別れと、帰途

 

8.お礼のみかん

 

9.そして

 

10.エピローグ

 

11.エピローグ の エピローグ ・・・ かかっていた私のCD

 

12.奄美 〜 みすみ コネクション

 

13.皆既日食の夏に

 

14.行って来ました! 青雲寮と再会し、交番もほぼ特定できました。

・・・皆既日食の夏に・・・

 

15.これが最後のエピローグ

 

                    (初版   記 2007年(平成19年)1213日)

                                (第2版  記 2009年(平成21年) 6 月 7日)

                                (第3版  記 2010年(平成22年) 121日)

登場人物(実名)の了承を得ながら、加筆して行きます。

勝手に、 元祖・ストリートミュージシャン を名乗っています・・・

 

 思えば、初めてストリートに立ったのは1971年(昭和46年)8月、台風のさ中の奄美大
   島・名瀬市の十字路でした。その時の経緯・様子を、つたない記憶を頼りに再現してみます。

 

1971年(昭和46年)8

 

1.きっかけ:

   私と友人・首藤哲秀(しゅとうてつひで)君、秋満節男(あきみつせつお)君の3人で与論

島(当時の日本領の最南端)へ旅をしました。

少しばかり、「離島ブーム」などという言葉がマスコミに出ていた頃です。

 荷物は、ギター1本とキャンプ道具らしきものを携え、鹿児島から乗船しての旅でした。 

船の名前は、「ハイビスカス丸」でした。船の中では西郷輝彦さんが歌う、

「♪ ハイビスカス〜 ハイビスカス〜愛しのハイビスカス〜♪」

という歌が流れていました。

  数日間、百合ヶ浜でギターを弾いたり泳いだりしての帰途、茶花港発の船に乗船の際、既に

台風の懸念が放送されていたように思います。

  この船の中では、秋満君が日焼けが火傷に発達し痛がっていたのと、船の横揺れと水しぶ

きが襲う恐怖から、船室のあちこちで悲鳴があがっていたことを覚えていますが、このことは

船酔いの惨状を中心に、別にあらためて記そうと思っています。)

 

2.名瀬港での足止め

   案の定台風が直撃し、船は名瀬港に避難停泊。乗船客はそれぞれの経済状態に応じて、船会

社が斡旋する宿泊施設へ移動しました。

   大体12時間くらいを経て、船の待合室に残っているのは我々3人のみになってしまいまし

た。

3人合わせても、ポケットのお金は宿泊施設に払えるだけのものが無かったのです。

3人とも、呑まず食わずでの待合室宿泊を覚悟しました。

「ここまでは、ハブは来んどねー」

などと熊本弁で話をしながら・・・。

 

3.大島高校・青雲寮からの救いの手

   そんなときに、船会社の方から声がかかりました。

 「県立大島高校の学生寮が、学生が帰省して空きがあるけん、学生と同じ条件で緊急に宿泊を

受け入れてくれるそうですよ。1泊3食で・・・百・・・十円(細かな記憶無し)

です。あんたたちどうするね?」

3人で鳩首会議の結果、

「数泊ならなんとか払える。」

との結論でお世話になることにしました。

この時点までは、正直のところお金は減るし、見知らぬ環境で無為に過ごさざるをえない

ことに、少しうんざりという気持ちだったでしょうか?

 


後日談:首藤哲秀の主張

「あのな、大島高校の学生寮に泊まれることになったのは、俺が『寮生に勉強教えてやる

けん安く泊めてくれんかのー?』と、交渉したからである。決して船会社の人から声が

かかった訳ではない!」

この真偽はきっと皆既日食の夏(後述13.「皆既日食の夏に」参照)の訪問で明らか

になるのではないだろうか。

 

4.とんだ迷走台風で、青雲寮では・・・

   「明日は船が出るはず。」

  との期待に裏切られ、まず1回目の延泊となったのでしょうか?

寮生の皆さんで、帰省せず居残っていた学生さんたちが三々五々、我々の居た部屋に遊び

に来て、トランプなどを始めたような気がします。ギターを弾いて歌も歌ったような気もし

ます。熊本の学生生活の話もしたような気もします。奄美群島の話をしてもらった気もしま

す。我々は、せいぜいコーラと柿ピーくらいを差し入れていたような気もします。

写真も残っていますので、皆あっという間に仲良くなった様子がありありと思い出されま

す。

(寮でも、秋満君の日焼け火傷がさらに発達し、ますます痛がって、涙眼で話をしていたこ

とも想い出されます。)

 

5.台風が戻って来て・・・大食漢・首藤君の涙

  「台風が停滞から、迷走、逆走して戻って来まして・・・まだ船は出ません・・・。」

  という伝達を更に数回聞いたような気がします。

   いくら安価な寮でも、3人の財布は次第に心細くなって来ています。

   当時から大飯食らいで有名だった首藤君が、米びつから飯をつぐ時、少し遠慮気味につい

でいて、何回も

「腹減るなー」

と、涙眼でボヤイテいました。でも私から見ると、しっかり食べていたようでしたが。

寮の学生さんに、サッカー部員がゴールキーパーを含めて数名おられて、グランドでサ

ッカーをして遊んだことも覚えています。

  台風が停滞している時期ですから、雨でグランドはぬかるんでいて泥だらけになって遊

 びました。

(当時は昔のサッカーブームの時期で、日本リーグがスタートした時期です。

68年メキシコオリンピックで日本が銅メダル獲得に湧いたのは、この3年前のことで

した。)

でも、大食漢・首藤君は、腹が減るからという理由で、あまりサッカーに熱心ではなか

ったという記憶が残っています。

 

6.そしてギター片手に名瀬市のストリートへ

 私は、雲の切れ間を見つけて抱えていたギターを持って、やや格好良く

「稼いでくるけん・・・」

と、大口を叩いてストリートへ出かけました。首藤君は少しは期待していたかもしれませ

ん。

  交番のあった十字路で、遠くから警察官が遠巻きに見ていた残像があります。

小雨がパラついていたので、途切れ途切れに立ち上がっては、行き交う人々もまばらな

ストリートに向かって大声で歌ったことは覚えていますが、 どのくらいの時間やったの

かなどは、全く覚えていません。

置いていた空き缶(または帽子だったか、はたまた竹筒であったか?いろいろな残像が

甦り、正確性には自信がありません。)は空っぽのままで、稼ぎも無く、徒労でがっかり

したという風にしか覚えていなかったのですが、後日の首藤君の話では、

「硬貨が数枚か、千円札が入っちょったぞ、お前は持ち帰ったぞ。」(首藤君は大分弁です)

とのことでしたが、真偽は定かでありません。

でも、きっと私が当事者ですから、私の記憶が正しくて、首藤君の記憶は期待感からの

幻覚ではなかったのだろうかとの疑いを持っています。

 


    きっかけなどを含めて前置きの説明が長くなってしまいましたが、

これをもって、 元祖・ストリートミュージシャン を名乗っているのみです。

 1971(昭和46)8月 の奄美大島・名瀬市でのスタートでした。

 

7.名瀬港での別れと、帰途

 私の生の記憶では4〜5日、後日談(後記)では6〜7日(後日談では、奄美大島から牛

乳が品切れになったような大きな被害をもたらした台風だったそうです。)間の大島高校青雲

寮滞在を終え、やっと出航する船に乗れることになりました。

 多数の寮生の皆さんが別れを惜しんでくださいまして、皆で寮で集合写真を撮ったりしまし

た。そればかりではなく、何と殆どの在寮の皆さんが、名瀬港まで見送りに来てくださいまし

てテープの両端を握り合って別れを惜しみました。

(当時の写真が沢山残っていまして、宝物にしています。)

 

 鹿児島港入港後の西鹿児島駅では、秋満君は無一文に近い状態で日豊本線に乗るために、スタスタと離れて行き、別れました。彼は父親が国鉄(当時)勤めという強みがあり、列車に乗って実家のある福岡県の行橋駅まで行けば、無一文でも何とかなると思っていた様子でした。

    首藤君は、

  「火傷して、面倒見てやったのに、冷たい奴やなー。」

  などとボヤきながら見送りました。

    それもそうでしょう、首藤君の実家は大分県別府市で、秋満君がその気になりさえすれば、

父親の威光で途中下車の面倒を見る事だって出来たはずですから。

      私と首藤君は、二人合わせても私の実家のある三角駅より約70キロメートルくらい南に

離れた八代駅までの二人分の乗車券分しかお金を持ちませんでした。

    でも、私のおじが九州産業交通バスという民間路線バス熊本県下ほぼ独占事業のバス運

     転手をしていましたので、二人して、

   「熊本県に入れば、何とか帰れる。」

   と、言いながら鹿児島本線に乗りました。

バスの運転手をしているおじさんの威光にすがろうとした点では、秋満君と同じだった訳

です。

  八代駅で下車して、予定通りオジさんの威光を利用して路線バスに乗り込んだ記憶があり

ます。

おぼろげな記憶では、家族パスというものが手に入って乗れたと思うのですが、どこでど

う入手できたのかは思い出せません。電話でもして手配したのか、バスの営業所に泣きつい

たのか、電話が発達していない時代ですから後者のような感じがするのですが。

 でも、はっきり覚えている事は、バスに乗ってからアンパンを首藤君と分けて食ったこと

です。

 

首藤君は私の実家にチョットの間滞在し、例の大飯食らいぶりを思う存分発揮して別府

に帰ったと思います。

  私の家族の間では、首藤君という名前では通用せず、「ベップ、又は大飯食らい」という

通称で呼ばれています。

 

8.お礼のみかん

  時は初秋に移ろい、私の実家のある熊本県三角町はみかんの収穫の時期にさしかかります。

就職も決まり、実家で生活していた私は自転車こいでみかん農家を訪ね、青雲寮の皆さん宛

にわずかの量(確か段ボール一箱程度)のみかんを送りました。

  当時学生の私たちが出来る感謝の気持ちだけを届けたくて。

 

9.そして

 3人は皆就職して働き始め、あっちこっちへ飛ばされたりしながら、結婚もして子供も出

来ました。

青雲寮で一番中心になってお世話をしてもらった、祷(いのり)さんとは、確か1〜2年

間年賀状のやりとりをして、交流は途絶えてしまいました。

 

10.エピローグ

  2003年(平成15年)春  生業(サラリーマン)で名瀬市に長期(約1ヵ月)出張。

               余暇に大島高校を訪ねるとともに、仕事上つながりのでき

               た奄美大島の地元の方に、雑談で32年前に大島高校青雲寮

                                                       でお世話になった話をしました。

    大島高校の事務の方も親切に対応して頂きましたが、直接

                                                 祷さんと再会の段取りを図って頂いたのは仕事上の縁が出

                                                 来た方でした。

 

   祷さんは覚えてくれていました。「みすみ」の地名と、み

かんを送った私のことを。

奥さんも息子さんも紹介してくれました。

 私も、祷さんは昔のままの方だったと尊敬しました。

 

2004(平成16) 冬   古女房を案内して奄美大島を旅して、もちろん祷さんの

                                                お世話になりました。

                 古仁屋から宇検村を回っての古女房とのドライブが印象
                           
                                                    的でした。

               私の苗字の“積”というのは、珍しいのですが、奄美大

                                                   島では墓碑銘でもよくみかけます。

                                                        今や、私も家内も“積”のルーツは奄美大島と思ってい

 

11.エピローグ の エピローグ・・・かかっていた私のCD

2007年(平成19年)春  再び、生業(サラリーマン)で名瀬市に長期出張。

今度は新しい驚きがありました。

熊本県下か、広くても福岡、長崎、大分県下くらいにし

か流通パイプが無いはずの、私のCD第2作目“のさりの

海”(2006年(平成18年)制作版)が名瀬市の有名な

居酒屋“一村”さんで所蔵され、お店で掛けられていたの

です。

 

12.奄美 〜 みすみ コネクション

奄美と、私のふるさと・みすみ(三角と書きます。)に大きなコネクションのパイプがあ

ることを知りました。

それは、海上保安官の方々が沢山働いていらっしゃるという共通項で、しかも当然ながら

人事の交流が頻繁だそうです。 

かってみすみで海上保安官として働いた皆さんが、みすみの居酒屋兼ミニライブハウスの、

“マリーンハウス”という店で、きっと夜な夜な呑んでお世話になられたのでしょう?

ママさんを転勤後の奄美に招待されたそうですね。

そのときにCDを携えて行ったお店が“一村”さんで、そこでオーナーの栄さんご夫妻の

耳に止まり、CDが残されたとのことでした。

ですから、私が“一村”に、仕事上の名瀬駐在の上司に連れられて行った際は大歓迎を受

けまして、数日後の仕事の合間に、やはり大島高校OBの森さんが経営する「ブルース屋」

さんでミニライブを行うことが出来ました。

祷さんご夫妻も、大勢の友人とご一緒に来てくださいました。

そして、名瀬を中心に活動するミュージシャンの皆さんとの楽しいセッションが出来ました。

 

13.皆既日食の夏に

2009(平成21) 夏  3人とも定年後で、還暦を迎え自由の身になります。

3人(都合がつけば奥さんたちも)で皆既日食のシーズンに、

奄美大島を訪ねる計画です。

              祷さんとの再会はもちろん、ブルース屋さん、一村さんを

たずねるのも楽しみです。

              大きなイベントも沢山あるようですが、私は先にセッショ

ンをやった皆さんとのミニライブを楽しみにして行きます。

                     首藤君は、大型オートバイでの島巡りを楽しみにしている

ようです。

 秋満君とは、しばらく交流が途絶えているので、まだ具体

的な連絡が出来ていません。

 


後日談:

秋満君(千葉市在住)とも連絡がとれ、7月22日皆既日食当日の奄美大島訪問を相談し

ましたが、諸般の事情で残念ながら参加出来ず、結局、私せき どうえい、首藤哲秀君のオ

リジナルメンバー2名と、この間のいきさつに詳しく、当時は諸般の事情で止む無く参加を

見送った小野陽一郎君(大分県杵築市在住のミュージシャン)の3名で「奄美大島恩返しの

旅」を行う事に、去る5月20日に決定したばかりです。

  5月20日とは、そうです航空券チケットが確保出来た日です。

もちろん、航空券がとれなかったら船でも行くつもりでしたが。

 

  

 

 

 そして、未だ特定できていない、初めてストリートで演奏した十字路を探

し出したいのですが  ・ ・ ・  

 記憶の残像は、大島高校青雲寮から徒歩圏内の“交番”のみです。

 

 

4行って来ました! 青雲寮と再会し、交番もほぼ特定できました。

・・・皆既日食の夏に・・・

2010(平成21) 7月20日(月・(祭)海の日)

私の家に大分から前泊した首藤君、小野君の3人で、鹿児島空

港から沖永良部経由奄美大島空港に到着しました。

計画どおりです。

            首藤君と祷さんとの再会は、思ったよりアッサリしたもので

した。最近ずっと祷さんの話をし続けていたからでしょうか。

 


   でも、後刻、首藤君は祷さんを別の人と勘違いしていたことも分かりました。

全くしょうがない首藤君です。昔から飯ばっかり食って、こういうところがあったとです。


 

 夕食には、もちろん祷さんも加わり、思い出話で痛飲し、大

いに盛り上りました。

 宿泊ルームも、ばしゃ山村の海が見える最高の部屋を与えて

下さり、他に有名人の沢尻エリカ様なども御泊りなのに、その

配慮に感謝しました。

 

7月21日(火)

3人でレンタカーで奄美大島1周しました。

マングローブ林、瀬戸内町・古仁屋港、グラスボートでの海中

観光、宇検村などの西海岸ドライブは思い出深いものでした。

 


でも、その過程で、小野君は「積の運転は怖い。」と言って運転手交代を求めました。

全くしょうがない小野君です。昔から慎重過ぎてこういうところがあったとです。

 

7月22日(水)

いよいよ午前中の皆既日蝕にワクワクしていましたが、残念

なことに曇り空でした。

でもだんだん暗くなり、皆既直前には林から鳥たちがいっせい

に飛び立ち、動物達の鳴き声も一斉に起こるという現象を見、

気温の低下を体感し、天空の360度周囲だけが明るいという

空を見渡すことができました。

「行って良かった!」

の一言に尽きます。

 


でも、その過程で、小野君は私の撮った写真を欲しがり、携帯メールで送るよう求めました。

でも送れど送れど「着かん!」とブツブツ言っていました。

後日、自分のメルアドを間違って伝えたと釈明しました。全くしょうがない小野君です。

昔から肝心なところで失敗するというところがあったとです。

 

あとは、泳いで、私は夜のライブの練習をして、首藤君と

               小野君は近くのドライブに行きました。

 


夜の、皆既日蝕ライブ

 

予定通り夜8時頃から、名瀬のこじんまりしたライブハウス“ぶるーす屋”

で、ソロライブでした。森オーナーご夫妻のご厚意に甘え、私のワンマン

でセットしてもらっていました。

森さんの手書きのポスターに感激し入ってみると、加川良さんの息子さ

ん(ドラマー)や奄美市役所のブルースマン・高崎さんなどがご来場く

ださり、それぞれご自分の技も披露してもらいまして同行の首藤君、小野君も盛り上っていい思い出になりました。

それは最高の皆既日蝕の夜でした。

 

 


       交番!見つけたゾ!!!

 

それは、ぶるーす屋(柳町) に行く道の途中にありました。

屋仁川交番 です。

歩道から数段上がった角地の小さな交番です。

記憶の残像はそのまま甦りました。

おそらく骨格は改築などしていないのではないでしょうか?

ここが、私にとっての“ストリートミュージシャンとしての原点”です。

約40年近く前に、小雨降る中立った小さな交差点。

思い出を静かに味わった数分間でした。探した甲斐がありました。

7月23日(木)

あいにくの雨でしたが奄美パーク、田中一村美術館、西郷

隆盛流刑地などを見て回りました。

 

私は最近数次の奄美訪問で田中一村に大いに魅かれて

おり本当に何度見ても感動します。

 

 首藤君と小野君は感動などとは程遠く、マジックミラーで

外部の人から丸見えなのにも気付かないで、不器用な奄美踊り

を踊っていました。

 

 早いもので明日は帰ります。夜は又祷さんを迎えてのお

別れ宴会です。祷さんは奥様も呼んで同席して頂きました。

 本当に楽しい、健康的でテニスがお上手という奥様で、大いに

盛上げて頂きました。

 首藤君が「『想い出の渚』弾いてくれ。」と言うので、とう

とうギターを持ち出して演奏までしました。

皆既日蝕後の静けさを楽しんで居られるお客様ばかりかと思い、

かなり遠慮して演奏しましたが周囲からたくさんの

拍手やアンコールの声が届き、ついつい“牛深ハイヤ節”

まで奏でてしまいました。

 これまた、思い出に残る“奄美ばしゃ山海岸ミニライブ”でした。

 


でも、その過程で、首藤君は祷さんの奥様とテニスの話で意気投合して盛り上がり、その奥様

を「アグネスラムに似ちょるなー!」と言い出しました。

だいたい、アグネスラムなどという名前を今頃まで口に出すのは「首藤君だけバイ!」

と私は思いました。そして首藤君はアグネスラムが活躍した青春時代そのままで過ごしちょっ

とバイな・・・と感心しました。

 

7月24日(金)

                 帰りも沖永良部経由で帰りました。

                乗り継ぎの待ち時間に行った沖永良部島の鍾乳洞は圧巻で

                本当に行って良かったと思いました。 

                 

                 今回は、約40年前に味わったお金の無い体験からは程

遠い、ある面ではバブリーな金銭的にも余裕のある大名旅

行でした。終生忘れることのできない旅でした。

 

 改めて、祷さん、奄美大島の皆さんありがとうと思いな

がら、JR日豊本線回りで,博多〜小倉経由帰る首藤君(別府)、

小野君(杵築)を
JR新八代駅で降ろして別れました。

御丁寧に小野君からは、乗車後すぐにメールで、

「予定の列車に乗れた。ありがとう!」

と着信しました。

 

15.これが最後のエピローグ

    帰宅後、くつろいでいた私の携帯に20時頃首藤君から電話。

     「あのなー 今、鳥栖の当たりで電車が止まって動かん、もう1時間近く動かん。

      福岡、特に板付界隈が大雨浸水で、前に一杯電車が詰まっとって動く目途たたん

らしいワ。」

  ・

  ・

  ・

23時頃も電話。

「あのなー まださっきのままや。でもなー今JRからおにぎりが1個づつ配ら

れたワ。 嬉しかー!」

 

24時過ぎはショートメール。

「日豊本線特急にちりんが博多で待っちょってくれてのー、今びゃんびゃん飛ばして

別府に向かいよる。良かった。腹減っとるけど帰れるワイ。」

 

 


首藤君!貴兄は奄美からの帰りは必ず飯に飢える事態が待っているのだ。

それはきっと、約40年前に昔大島高校青雲寮で、いたいけな学生さん達の飯を横取りして大

飯ぐらいしたたたりに違いない。

早い機会に懺悔してお祓いをすることをお勧めする。

お祓いの方法は具体的には大島高校青雲寮に最低米一俵は寄付せないけん。

 

 

     クリスマスに、祷さんにささやかながら、球磨焼酎1本と夏撮影の思い出の詰った

写真をDVDにおさめて贈りました。

 祷さんから、

「必ず、熊本と三角に行きます。」

と、返事がありました。

 嬉しい計画です。又楽しみが出来ました。

 

                                    (了)